2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男
大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」


2008年2学期講義、学部「哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」  入江幸男

大学院「現代哲学講義」「アプリオリな知識と共有知」

第13回講義 (20081月27日)

 

§18 知の普遍性の分析

 

フィヒテの知の分析から、知には、それが普遍的であるという信念が伴っていると解かった。フィヒテ解釈を離れて、これをさらに分析しよう。

 

●知の内容の普遍性:pを知っているというためには、よく似たケースでよく似た判断が可能であるという信念が伴っていなければならない。

 

■問題「全ての知は技能知にもとづくのか?」(未解決)

ある対象について「これは赤い」と判断し、他の対象について「これは赤い」と判断するとき、文は同じであっても、発話のトークンは異なる。では、知としてはどうだろうか。知としては、別の対象についての別の知だといえる。

しかし、この二つの知には、必然的な結合がある。一方が成立するならば、他方も(適切な条件さえみたされるならば)成立しなければならない。もしそう考えないのならば、知の内容の普遍性の主張に反するのである。(もちろん、二つの対象がともに赤いということは偶然である。)

ある対象がそのタイプに属するかどうかは、ある対象について「これが赤い」が成立するかどうか、ということである。この判定は、命題に基づくものではない。それは技能知であるとしか言えない。

 

知には、似たような対象について似たような判断が成り立つという信念が伴うのだとするとき、似たような判断は、より普遍的な判断(法則)の一事例と考えられる。この法則を明示的に示せたとすると、そのときには、この法則についても、似たような領域で似たような法則が成り立つという信念が伴うのだとすると、さらに普遍的な法則が考えられるかもしれない。また、法則を別の仕方で表現できると考えられるかもしれない。論理法則の場合には、法則を表現する別の仕方は多数可能である。法則そのものを表現することが出来ないということもできる。

<知の普遍性、知の背後にあるこの法則性を明示的に命題にすることが出来たとき、それもまたさらにより普遍的な法則の事例である>と言えるだろうか。もしそうならば、論理学や数学の知と同じく、経験的な知も規則の適用の技能知に基づくことになる。感覚についての言明もまたそのような技能知に基づくことになる。

 

問題「知にもトークンとタイプの区別を立てることが可能だろうか?」(未解決)

文のトークンとタイプの区別とは、文の発話と文の区別である。ある対象について、「これは赤い」といわれ、さらにもう一度「これは赤い」といわれるときに、それは二つのトークンである。しかし、これは知としては一つである。同じ知が、二度表明されたのである。

同じ対象について、別の人間が、「これは赤い」といったときに、文としては同じで、トークンとしては異なる。では、知としてはどうだろうか。知としては、私の先の知と同じだといえるのではないだろうか。「オバマが新しい大統領だ」と私は知っており、他の人も知っているとき、それは知としては同じだといえるだろう。「知にもトークンとタイプの区別を立てることが可能だろうか?」

 

■文の二つのトークンは区別し比較できる

次のようなケースならば、二つのトークンを比較できるだろう。それは、同じ文を他の人が二度発言することを聞いたとき、あるいは、二人の人間が発言するのを聞いたときである。そのとき、聞き手は、その二つの発言が、同じ内容の発言であったと理解する場合がある。そのとき、彼は二つのトークンを比較している。それは、記憶された二つのトークンの比較であるかもしれない。その意味で、それは第三、第四のトークンであるかもしれない。しかし、その場合であっても、判断する者は、その第三、第四のトークンで、最初の第一、第二のトークンを表象している、ないし指示しているつもりなのである。

他人の話すトークンは、それを他人の身体活動や、空気の振動などの物理現象としての特定することが可能であり、物理現象として比較することが可能である。自分の話すトークンの場合も、これが可能である場合があるが、問題は内言の場合である。

 

「内言の二つのトークンを比較できるか?」

我々が、或る白い紙を見て、他のところを見てから、もう一度その白い紙を見るとしよう。このとき、二つの白さの感覚を比較することが可能だろうか。比較できる、といいたくなるが、しかし、比較しようとすると、前の感覚を思い出さなければならない。思い出された感覚は、白さの感覚ではなくて、その記憶である。厳密には、同じものについての二度の感覚を比較することは出来ない。

これと同じことがトークンにも言える。「4+3=7」を内言したとしよう。この二つを比較するには、前の内言を思いださなさなければならない。それを思い出すとき、それは内言そのものでなくて、内言の記憶であるといえるだろう。あるいは、それを思い出すとき、それは「4+3=7」の三度目の内言をしている。しかし、二度目のトークンが「4+3=7」の文のトークンであることが解かるならば、内容が同じだといえるだろう。ここで頼りになるのは、記憶である。

 

文のトークンの成立は、知の成立でもある。このとき、次の問が成立する。

 

問題「発話のたびに生じている知は、数的に一つの知だろうか、それとも同じ内容であるけれども、数的には別の知だろうか?」(未解決)

 

 一つの知であるとしよう。そうすると、その知をどのように考えたらよいだろうか。

我々が同じ一つの文を何ども発話するように、同じ一つの知を理解しているのだと言えるだろう。同じ文の発話であることは、二つの発話を比較すれば、確認できるだろう。同じ知であることも、同様だろうか。二つの発話の理解を比較すればよいのだろうか。しかし、比較のためには発話の二つの理解が区別されなければならない。区別されるとすれば、そこで言えるのは、内容が同じ二つの理解があるということである。しかし、二つの理解の内容が同じであるということは、二つの理解が同じ知を内容としているということである。

 

心の中で、一つの知が反復して現れるのだろうか。机の上のコップを見て、後ろを向いてからもう一度コップをみるとき、私はコップを二度見ている。しかしそれは同じコップである。コップの知覚は二つあるが、コップは一つである。それと同じく、「13+20=33」を二度考えるときに、思考は二つあるが、知は一つなのだろうか。そう考えるとき、知覚がコップへのアクセスであるように、思考は知へのアクセスなのだろうか。二度目に見たときに、同じコップであることをどうやって知るのだろうか。それはコップと周りの様子からであろう。つまり、最初のコップの知覚と二度目のコップの知覚を比較するのである。しかし、知の場合には何を比較するのだろうか。前の知と二度目の知を比較するのではない。それなら、コップの知覚と同じく、同じ知が二つあることになる。

 

■「知っている」と思うことの不可避性

我々は、反省すると十分な根拠を示せないにもかかわらず、なぜ「知っている」とおもうのだろうか。我々はときとして、ほんのわずかの証拠しかもたないときにも、「知っている」と思ってしまう。その理由は、我々が考えるときに、「・・・である」という形式でしか考えることが出来ず。その留保なしの文は、知を表現しており、「・・・を知っている」という命題的態度を付けることができるからである。それは、なぜだろうか。

これは私がまじめに考えることしか出来ないことと似ている。冗談を語るときにも「これは冗談です」というメタメッセージはまじめなメッセージである。そうなる理由は、「まじめに話していますか」という問に対しては「まじめに話しています」と答えるしかなく、「いいえ、不真面目に話しています」という答えが、まじめな答えになってしまうということが、その理由である。「まじめに話していますか」という問に対して、不真面目であることを示すには、それに答えてはいけないのである。

これと同じで、「あなたは何か主張していますか」という問に対して、「私は何も主張していません」と答えると、主張していることになってしまうのである。このことが、我々が考えるときに、あるは自問自答するとき、何かを主張するという仕方でしか考えられない理由なのである。「あなたは何か知っていますか」という問に対して「私は何も知りません」と答えると、これが無知の知の表明になってしまうのである。

 

■知が客観的であることの不可避性

知は、他者に対しても妥当性をもつと考えられている。我々がある信念pを持っているときには、常にあるいは少なくとも大抵、何某かの根拠をもっている。ましてやpを知っていると思っているときには、根拠を持っていると思っている。その根拠によって、知は他者に対しても妥当性を持つのである。「私はpを知っている。しかし、他者はpを知りえない」と考えることは、どこか不合理である。ただし、本人にしか分からない私的な体験については、「私は歯が痛い。しかし、他者はそれを知りえない」と語ることは合理的である。しかし、そのような特殊な事情がない限り、「私はpを知っている。しかし、他者はpを知りえない」とかたることは、不合理である。たとえば「私はフェルマーの定理の証明を知っている。しかし、他者はそれを知りえない」と語るとすれば、それは「知っている」という言葉の使用法に反する。

 

 

§19 George Bealer による立場の整理

 

George Bealer 'Epistemic Possibility, Metaphysical Possibility& the A Priori’

(2005年12月アメリカ哲学会(APA)のEastern Divisionで配布されたハンドアウト)の序論で、彼はアプリオリに関する立場を次のように整理している。

 

@急進的経験主義Radical empiricism (Mill, James, Quine, Devitt)

  Experience is the sole source of knowledge.

 経験だけが知識の源泉であり、アプリオリな知識はない。

 

A穏健な経験主義Moderate empiricism (Hume, Carnap)

  There is a priori knowledge of analytic necessities.

 経験的知識に加えて、分析的で必然的でアプリオリな知識がある。

 

B穏健な合理主義Moderate rationalism (Descartes, Locke, Kant)

  There is a priori knowledge of synthetic necessities.

  経験的な知識、分析的で必然的でアプリオリな知識に加えて、総合的で必然的でアプリオリな知識がある。

CRadical rationalism (Spinoza, Leibniz, Hegel, Fichte)

  Every (knowable) truth is knowable a priori.

 全ての知識は、アプリオリに知りうる。

 

DKripke and Putnam

  A posteriori necessities and a priori contingencies.

クリプキとパトナムは、「必然的でアプリオリ」と「偶然的でアポステリオリ」に加えて、「必然的でアポステリオリ」「偶然的でアプリオリ」を認める。

 

Cへの批判:

Bealerは次のように指摘して、Cを批判する。

Surely some contingent truths not knowable a priori.

つまり、Radical rationalism は成り立たない。

 

BealerはB穏健な合理主義を主張する。

Bの原理

The principle of Moderate Rationalism:  p is knowable a priori iff p is necessary.

穏健な合理主義の原理:pがアプリオリに知りうるのは、pが必然的であるときそのときにかぎる。

この点で、次のクリプキとはことなる。

この原理の論証は、次の原理に基づく。

意味論的安定性原理(Semantic Stablility Principle):

All semantically stable necessary truths are a priori.

 全ての意味論的に安定した必然性は、アプリオリである。

 

おなじように、穏健な合理主義を採るものに、二次元主義がある。

 

FTwo dimensionalism (Jackson and Chalmers)  is a form of moderate rationalism

BealerCharlmersは、ともにModerate Rationalismを採用する。つまり、共に、クワインを批判し、共にクリプキを批判する。

しかし、BealerSemantic Stability Principle を認めるのに対して、Charlmersは認めない。Chalmersが、Semantic Stability Principleに対する反証例を挙げているので、その反証例に対して、意味論的安定性原理を擁護し、Chalmersを批判することが、このときの発表内容となる。

 

II Bealer moderate rationalism のアウトライン

 

直観が、アプリオリな知識の証拠となる基礎である。

(Intuition is the evidential basis of a priori knowledge)

直観は、知的にそう見えるということである(信念、判断、予感、常識、ではなく)知的にそう見える(Intuition is intellectural seeming)

 

我々の標準的な実践は、直観を証拠と見なす。というのは、我々には、実践を放棄するよい理由がないからである。直観を拒否することは怠惰な懐疑主義である。

直観を拒否することは、自己論駁的な認識論に通じる。

以上のことは、綜合的な直観にも、分析的な直観にも妥当する。

 

Modal Reliabilism:直観の証拠能力は、直観と真理の間の様相的結合によって説明される。

この様相的結合は、<概念を理解する>ことの十分な定義から帰結する。

(これについては、Bealer A THEORY OF THEA PRIORI’ (Pacific Philosophical Quarterly 81 (2000) University of Southern California and Blackwell Publishers Ltd. ) を読む必要がある。

 

■補足

Michael Devitt BoghossianBonjourBealerを精力的に批判している。

彼のHPで論文を読めるが、例えば次のものがある。‘THERE IS NO A PRIORI’ (Contemporary Debates in Epistemology, Ernest Sosa and Matthias Steup, eds. Cambridge, MA: Blackwell Publishers (2005), 105-115.)

 



Acknowledgement 

半年、お付き合いくださり、ありがとうございました。
アプリオリな知の問題は、知一般をどのように捉えるか、という問題と深く関係しています。
フィヒテは、そのことを理解していました。
アプリオリな知が存在するかどうか、それ自体が大きな問題ですが、それに加えて、その結果として、
知そのものの理解も深まることが期待できます。
しかし、このセメスターだけでは、とても十分に議論を展開できませんでしたので、もう一度このテーマに取り組みたいと思います。